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どんなお話があるのかな。
エーリッヒ・ケストナー(Erich Kästner, 1899年2月23日 - 1974年7月29日)はドイツの詩人・作家である。 ドレスデンのノイシュタット生まれ。父親は鞄作りの手工業者だったが、産業工業化のあおりを受けて、工業労働者になり、母親は夫の少ない労働賃金を補うため、理容師になる(『わたしが子どもだったころ』に詳細)。教師になろうとして、教師を養成する専門の中高一貫校(ギムナジウム)に入学。第一次世界大戦に兵士として召集される。命令と服従という関係しかなかった学校、軍隊に反発を感じ、大学進学を決める。ライプツィヒで学業の傍ら、新聞の編集委員をしながら、詩や、舞台批評を発表。空前のインフレの影響もあり、苦労して大学を卒業した後、ベルリンに出て詩人として認められた。 辛らつで、皮肉の強いパロディや、厭世的でシニカルな作品を多く発表する。また、恋愛を対象としたものも多い。1928年に発表した子供のための小説『エーミールと探偵たち』が好評で、次々と子供のための小説を執筆し、児童文学作家として世界的に有名になった。とりわけ、世界各国で何度も映画化された、同タイトルの映画は有名。ベルリンの荒廃を描いた『ファービアン』(1932年)は第二次世界大戦世代の日本の作家たち(織田作之助、吉行淳之介、開高健など)に、好意的に読まれ、子供のためだけではない小説家としての顔を見せている。 自由主義・民主主義を擁護しファシズムを非難していたため、ナチスが政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。ケストナーは父方を通じてユダヤ人の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続け、スイスの出版社から出版した。ナチス政権によって自分の著作が焚書の対象となった際にはわざわざ自分の著書が焼かれるところを見物しにいったという大胆なエピソードがある。ナチスもケストナーを苦々しく思っていたが、拘束などの強硬な手段を取るにはケストナーに人気があり過ぎ、逆に民衆の反発を買う恐れがあったため、ケストナーの著書を焚書にした際、子供たちに配慮して児童文学だけは見逃したり、ケストナー原作の映画を作成したりしている。一方でベンヤミンを含む、マルキシズムの立場からは、政治的に立脚点が無く、その理想は、プチブルジョアのための慰めでしかない、という批判を受ける。 戦後は初代西ドイツペンクラブ会長としてドイツ文壇の中心的人物になった。ちなみにドレスデンにいたケストナーの母親とは戦後の東西ドイツ分断で離れ離れになってしまったが、東ドイツ政府もケストナーが反ナチを貫いた事を高く評価、母親を手厚く保護したと言う。1960年、『わたしが子どもだったころ』で優れた子供の本に贈られる第3回国際アンデルセン賞を受賞した。 長年ルイーゼロッテ・エンダーレという女性と生涯ともに暮らしていたが、内縁関係のままで生涯結婚する事はなかった。ちなみに『ふたりのロッテ』の主人公である双子の姉妹(ルイーゼとロッテ)は、この内縁の妻の名を分けて名付けたことで知られている。 エーミールと探偵たち(1929年) エーミールと三人のふたご(「探偵たち」後日譚)(1935年) 点子ちゃんとアントン(1931年) 飛ぶ教室(ドイツで映画化:飛ぶ教室 (映画) を参照) ふたりのロッテ(1949年) 劇団四季が子供向けのミュージカルとして上演している、後に『わたしとわたし ふたりのロッテ』としてアニメ化 五月三十五日 木馬座が子供向け人形劇として上演していた わたしが子どもだったころ 動物会議 サーカスの小人 サーカスの小人とおじょうさん(「サーカスの小人」後日譚) たくさんありますね。 |
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